概念のしっぽを掴め

穴掘りと抵抗

感情の段階と行動選択

こないだ私はツイッターで「第一感情」「第二感情」「第三感情」という概念を前提に話をしていたんですが
いつもの私の説明不足により私にしかわからない喋り方で喋り続けてしまう癖があるためにあんまり伝わってなかったぽいのでもったいない
私はこの概念を面白いと思っているし使い勝手がよいので、この概念を使って喋るときに常に説明しなくても済むようにメモ的にこの記事を残します

定義

いきなり「第一感情」「第二感情」「第三感情」とか言われてもなんのこっちゃでござる
とりあえずネーミングを思いつきました

「第一感情」=「自然感情」
「第二感情」=「社会感情」
「第三感情」=「意識感情」

だいたいこのどっちかで呼びます でもやっぱり私はこれらの感情をフェーズ的に理解しているから基本は数字で呼びます
感情の発生から向き合い方までをこの三段階でだいたい説明できると思っています
もしかしたらこの先に第四感情とかもあるかもしれないけど 現段階では私には見えていないのでそれはさておき さておき

第一感情(自然感情)

第一感情は反射です
「嬉しい」「悲しい」「おいしい」「ムカつく」など
事象と出会ったときに最初に発生する感情を第一感情(自然感情)と呼ぶこととする

物を食うとか泣くとかの行動は第一感情による行動とします
感情の発露の第一番目、という意味での第一感情です
一番正しいとか一番優れているという意味ではないです それはこの後の第二第三感情についても同じ

第二感情(社会感情)

第二感情は制御
第一感情に対して公共の福祉的なものを考えた結果のふるまいのことをそう呼ぶ
「ふるまい」を「感情」と呼ぶの合わんかもだけど 「ふるまうべきだ」と思う感情かな

これは第一感情に対して見ると理性的

第三感情(意識感情)

第三感情は態度です
態度というものは決めてやるもんだ 第三感情をやるには覚悟がいります

第三感情を考えるとき、第一感情に立ち帰ります
第一感情は第二感情によって制限される これは表現の自由が公共の福祉によって制限されることと同じ それはもちろん大事 必要なこと

だが第一感情の興りはそもそも何だったのであろうか
怒りを抱いたとき、守りたかったものは何だったのか
悲しかったとき、傷つけられたものは何だったのか
それを無視して、すでにある「社会」のためだけには生きられないよねっていう
自分のありようを示す覚悟をするというか
第二感情的に対立することも出てくるんですけどそこも含めて覚悟をする 自己表明はこの世の全てのものには許容されないので これが第三感情

うーん伝わるだろうか 伝わるといいな

議論における使われ方(私見

これは私の考えや私から見た観測状況であって、必ずしも正しいものではないんですけど

第二感情ってなにか、すごく正しいもののように扱われてはいないか?
社会至上主義的な、なんだろう、それは自分がその「社会」の定義に認められているうちはそれを支持していても自分を助けてくれるけど
「社会」の定義に外れたときに、自分を助けてくれないものを支持していて大丈夫かという心配はある
こういう心配って私の価値基準においての心配なので、逆の価値基準からしたら余計なお世話だったり、おためごかしなことを言って口を塞ぎたいだけだったりもするけど

私はわりと第二感情に対して批判的というか、懐疑的に思っているというか
対立する意見を唱える人が、純粋な第二感情のみできてくれることがあまりない実感である

まず第一感情って最初に起こる感情だけに、動物的であって、理性的ではないと見なされやすいのではないかなと思います
そして第三感情は第一感情を守るためのものである
これにより第一感情で行動する人と、第三感情で行動する人の最終的な言動は似るんですよ というかほぼ一致する?
これに対して第二感情は理性の形をとっているので、第一感情および第三感情に対してトーンポリシングをやりやすいという構造があるのだ

第二感情が、それはやりすぎだよって言うための理性の役割のみを完全に果たすことは難しいと思う
だって「言い負かしてやりたさ」を制御することは難しい 少なくとも私には難しい(私はこのように自分のできていないことを明かすとき、相手も同じようにできていないことがあるのを想定して、そこへの共感を込めて言っている。そのため私の明かした「できなさ」そのものを取り上げて批判されることはとても不本意です)
つまり表向きは第二感情(理性的)に見えるものが、第一感情によって行使されている場合があるということ
この見分け方は難しい。行使する本人は理性によって制御していると思っていたりするし、野蛮ともいえる第一感情を認めることは、心理的に難しくもあるのだ

第二感情、議論をする人がそれぞれ意識するべきことではあるけど、相手がそれをできていないことを責めとして使う場合は、一度自分のことも見直してもらえたらいいなあと思います
なるべく自分自身への批判として、第二感情を行使するというのを、議論を行う人の態度として徹底できたら傷つけ合うことが減るだろうに、と、理想論ですが思います
(いや酷いものは自分から相手へ指摘すべきだと思うけどその「酷い」の定義も難しいよね…)

大した結論もないけど、目に見える範囲の「議論」のようなものに対して、そのような感想を抱いています

まとめ

呼び方 意味 行動 特徴
第一感情(自然感情) 反射 認識 動物的である・動物的に見える
第二感情(社会感情) 制御 尊重 理性的である・理性的に見える
第三感情(意識感情) 態度 覚悟 理性的である・動物的に見える

句読点も正しく使わないような文章でしかまとめられていないので、あまり客観的に説得力のある文章にならなかったなあ…
でも綺麗にするのをずっとやっていたらいつまでも表に出せないので、とりあえず不格好でもこのまま出す

以上です以上〜〜〜〜〜〜