概念のしっぽを掴め

穴掘りと抵抗

信頼について

私の信頼について考えていました。
私たちが得るべきは「気のもちよう」であると思います。


定義の広い言葉、曖昧なままの言葉では、私たちは私たちの中の揺るがないものが何であるかを見つけることができません。
「信頼」は、定義が広く曖昧な言葉であると思います。
「信頼」が、何か白く美しい、穢れなき大きなもののように思えるために、それが叶わないときには、私たちはひどく絶望してしまいます。
私たちは、自分というものの土台が何者にも揺るがされないために、自分の信頼の根拠を知る必要があると思います。

私は私の信頼を読み解くことをしてみました。
「正体を見抜くこと」を、私たちは古くから生活に生かしてきたと思います。
その利便性を今日も得よう、というかんじです。




私の信頼の根拠には、3つの期待がありました。
価値観の一致、利害の一致、返報性への期待です。


価値観の一致とは、私とその対象の、感じ方や行動が近いということです。
ある言い回しに対してこんなことが目につくとか、そんなことをされたらこんな言動を起こすよね、といった共感です。
そのような共感がベースにあるため、その対象のとる行動に、そもそもあまり疑問を抱くことがありません。
自分ならこうする、近いあの人も同じ行動を選ぶだろう、という予想に基づく期待です。

利害の一致とは、理想とする目的地、社会のあり方が一致しているということです。
このような社会を目指したい、と掲げる目的が一致していれば、自然とその行動も近くなるもの、または行動が違っていても、多様性を道具として目的に近づけることを期待し、歓迎します。
得意分野が違っていて、選ぶ行動が違っていても、目指す先が同じであれば自分の不都合となる可能性は低いだろう、という予想による期待です。

返報性への期待とは、恩義を元とするものです。
自分が費やしたことが、相手の利になるようなことであれば、その利に報いようとする動きが自然と期待されます。
それは直接的なお礼でなくとも、その人の行動の先に、自分にとって役立てることのできるものがあればよい。
役立てることのできる可能性は、先に挙げた2つの一致により、おそらく叶うだろうと予想されます。


私の信頼とは、読み解けばこれら3つを根拠とするものでした。
私の信頼の、正体がわかりました。

「信頼」の言い換えとして、「予想」「期待」という言葉が出てきました。
読み解くと、これら全てはあくまで主観的な予想であり、一方的な期待であるため、必ずしも実際と一致するのではないことがわかります。
「可能性が高い選択をする」、ただそれだけのことであるとわかります。

「信頼」に比べて、「予想」や「期待」という言葉で表すと、それが自分の進退に関わるような実感は薄れるのではないでしょうか。
このようにスケールを小分けにしていく、具体化していくことで、自分と他者との浸食を最小限にすることができるように思います。
「信頼」とは、ただの主観的な合致の積み重ねです。大元には「自分」があって、それに適うか適わないか、その可能性の予想でしかありません。
そうであるので、ある「信頼」が外れることなんて、取るに足らないことだと思えます。




このことで私の伝えたいことは、だから私たちは大丈夫だ、ということです。

私やあなたが間違えることを、私は大した絶望ではないと思います。
信頼をおく先を間違えたとして、それはあなたのあり方までをも揺るがすには値しないものです。
大元にはあなた自身があり、ただそこに合うものかどうかという判断を間違えただけです。あなた自身のこれまで全てが覆ることなど、こんなことでは起こりません。
しかし道具は増やせた。パターンの一つを覚えておくことで、次に間違える可能性を減らせます。
あなたはあなたのままで、どんどん洗練されていく。
私はこのことに、希望と確信しか見出すことができないでいます。


私たちは、この先も、懲りずに信頼を続けることができます。
私は結構打率が高いのです。心から信頼のおける友達がいて、心を明かすことで新しく大好きな人たちともたくさん出会ってきています。
人なんてみんな違うのに、それでも大好きだと思える人たちと多く出会えていることは、とても尊い偶然の重なりの一つ一つです。
私はこの、本当なら叶わなくてあたりまえみたいなことが叶う喜びを何度も経験しているから、ちょっとやそっとでは信頼することをやめられません。

数撃ちゃ当たるし、数撃ってんだから外れもします。
そんなことにいちいち絶望していられない。
しかし、あなたの悲しみまでも否定されるべきではありません。私も、期待が叶わなかった瞬間にはとても落ち込みます。
自分の悲しみには、十分に寄り添ってあげてください。でもその最後は絶望ではないはずです。




世界を信頼できる可能性を上げる方法、信頼できる先を増やす方法も示します。

それは、私たち自身が、自分にとって信頼に足る人間になることです。
「普遍的な信頼」というものはないように思うので、誰にとっても信頼に足る人間になることはできないと思います。
「信頼に足る人間」とは、「自分にとって信頼に足る人間」で十分です。
あなたが生きる世界なのだから、あなたの世界を叶えるために生きるべきです。

私たちは、私たち自身がそうなることで、この世界に「信頼に足る人間」を一人増やすことができます。
そのとき、確信できる一つの事実が生まれます。
「世界に一人、信頼に足る人間がいる」
この事実は、私たち一人一人の希望となります。
「誰かにとっての自分」を信頼できたとき、どこかにいる「自分にとっての誰か」の存在も、確信に近い状態で想像することができるのではないでしょうか。


信頼は、叶えば嬉しく、叶わなければ取るに足らないものだと思うのがいいと思います。
すべては偶然で、すべての偶然がそうであるように。
期待とは、「叶うべきもの」ではありません。
有り難いことだからこそ、叶ったそのときには、愛する人と存分に喜びを分かち合いたいと思っています。






以前書いたブログを非公開にしました。
私は私の言葉によって、人の心を、ひいては行動を動かす力があると信じています。
その行動の一つを、いったん留めたいと思ったため、非公開にしました。この行動とは、金銭的支援です。

私が私の考えを述べた上で、かつての発言として再度公開するのであれば、この非公開の理由には反しないと考えます。
このようなフィルターを設けた管理下で公開することで、その言葉による具体的行動を促す効果を制限できると考えます。
私にとっても大切な言葉であったため、見えるところには置いておきたいなと思っていました。

drive.google.com

ここに綴った言葉は今も、行動しない私を咎め、過去の私の間違いを受容するものであることは変わりません。
私は「ネットリンチに反対する姿勢を示す」ということそのものを、間違いであったとは思っていません。
その姿勢を示しやすい空気を作ってくれたことへの感謝も変わりはないです。
良い効果が、そこには絶対にありました。

ただ、私はもっと慎重であるべきだったと思います。
私にとって、人権問題は重要な問題です。しかし現実的、金銭的なリスクを見る視点には粗があったと言わざるを得ません。
また、毅然とした態度をとるべきと考えるあまり、自分と異なる危機意識・価値観を持つ人への想像力と尊重に欠けていたと思います。
このことにより、不利益を被った方がいたと考えます。

この「不利益を被った」(特に金銭的支援について)は、いまだ断定できる事実ではないというのが私の見方です。
未来的な余地、および金銭を負担した本人の主観・気持ちによってはその評価を確定することができないからです。
この場で私が謝ることは、何かしらの事実を確定させるものではないことを申し添えます。

それでも私が謝るのは、私の主観・気持ちによるものです。
私が今後、彼女らへ協力的な姿勢を見せることはないでしょう。
世にあるネットリンチや、多数から個人への要求に関しては、今後も私は不当・暴力的であるという考えを持ち続けると思います。(ただし、やはり慎重さや想像力はこれまでよりも身につけるべきです。)

意見の違いによって、傷つき合うことは、今後もあろうかと思います。
それを私は健全なことであると思っています。
私がある主張をするとき、別の主張をする方がいることで、守られる意見の均衡があり、その逆もあります。
同時に一人の人間が、全ての主張をこなすことなどできません。
それを私たちは、今後も多様性によって補い合っていくのだと思います。


私の考えは以上です。
私の働きかけや主張により、不利益を被った方がいましたら、申し訳ありませんでした。
何かあれば、またこのブログにおいても私が誰かの権利を侵害することがあったならば、法律に基づき、あなたの権利を守ることをしてください。




最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
あなたとあなたの大切な人に、自由で安らかな日々のあることを祈っています。